復古神道をわかりやすく解説!神道、古神道との違いは?
神道は大昔から脈々と受け継がれてきた教えです。日本の宗教とも呼ばれている「神道」には、「古神道」や「復古神道」と呼ばれるものもあります。古神道と復古神道は似たような言葉ですが、どのような違いがあるのか気になりますよね。
そこで今回は、復古神道について、
- 復古神道とは
- 復古神道を唱えた「国学四大人」
の大きく2つに分けてご紹介したいと思います。
この記事を読むことで「復古神道」とは何か知ることができ、より神道の歴史を深く理解することができますよ。
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復古神道について
復古神道について、次の順番でご紹介します。
- 復古神道とは?
- 神道とは?
- 復古神道と垂加神道
- 復古神道の歴史背景
それでは詳しく掘り下げていきましょう。
復古神道とは?
復古神道は、次のように定義されています。
江戸後期に荷田春満 (かだのあずままろ) ・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤 (ひらたあつたね) らの国学者によって提唱された神道説の総称。儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想。(引用;goo国語辞書)
古神道と復古神道の違いは実はなく、復古神道の略称が古神道となります。
江戸時代後期に4人の国学者によって提唱された復古神道を参考に、幕末から明治にかけて神道を国家宗教にしたいという動きとともに、神道の起源を明らかにしたいという流派が「古神道」となります。
神道とは?
次に、神道の定義を明らかにしましょう。
神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。
自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。明治維新より第二次世界大戦終結まで政府によって事実上の国家宗教となった。この時期の神道を指して国家神道と呼ぶ。(引用:Wikipedia)
神道は日本の民族宗教と定義されます。しかし、キリスト教やイスラム教などのように教典や具体的な教えもなく開祖もいないという世界から見ても大変珍しい宗教です。
古神道は他の宗教の影響を受けていないものに対し、神道は1300年前ごろから入ってきた仏教の影響を受け儒教、キリスト教など様々な宗教と混ざり合ったものを言います。
例えば、大日如来(仏教)が日本では天照大御神(神道)の姿になり、阿弥陀如来(仏教)は八幡神(神道)の姿である、というように神道の神様と仏教の神様は同じなんだという考えがまさに「神道と仏教を混ぜて使っている」のがわかります(本地垂迹(ほんじすいじゃく)説)。
復古神道と垂加神道
復古神道が唱えられた同じ江戸時代に、もうひとつ「垂加神道」という神道解釈が起こりました。それぞれの違いを見てみましょう。
- 復古神道
江戸時代に盛んになった神道の解釈で、今までの仏教や儒教と混ざり合った神道を排除し、昔ながらの正しい神道を取り戻そうとする運動の一つです。
その中から国学なども生まれてきました。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤、本居宣長などが有名です。垂加神道は道徳性が強い内容となっていますが、復古神道は学問的に突き詰められていった神道であると言えます。
- 垂加神道
江戸時代の山崎闇斎が提唱した神道の解釈の一つで、朱子学、陰陽学、易学を取り入れた神道のことをいい、『垂加』とは伊勢神道の神道五部書の一つ、「倭姫命世記」の一節にある「神垂以祈祷為先冥加以正直以本」から来ており、この言葉は「神の恵みをうける(垂る)ためには祈祷が第一で、神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」という意味があります。
垂加神道は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治することが神道であるという「尊王思想」という考えを持っています。またこの神道では「敬」という行為を最も大切としており、その敬という行動とは「正直」であること、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えています。
復古神道の歴史背景
「復古神道」と「神道」が区別されるようになったのは、実は明治時代からです。
明治時代といえば海外との交流が盛んになり様々な文化が取り入れられた時代です。日本は国民国家として西欧諸国に対抗するべく、天皇を中心とする日本独自の宗教の確立させる必要が出てきました。その影響は宗教まで及び、今まで仏教やキリスト教など神道以外の宗教も包含してきた神道を日本の宗教(国家宗教)として扱うべく教義も曖昧だった神道をしっかり決める必要性も出てきたのです。
その流れの中で、神道の起源を明らかにしたいという流派が現れたことで「復古神道(古神道)」と「神道」が区別されるようになりました。
以上、復古神道とは何かや歴史などを見てきました。
この「復古神道」を語る上で重要となる4人の国学者がいます。彼らは一体何者なのか?次章で見ていきましょう。
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復古神道を唱えた「国学四大人」
「国学四大人」とは、
- 荷田春満(かだのあずままろ)
- 加茂真淵(かものまぶち)
- 本居宣長(もとおりのりなが)
- 平田篤胤(ひらたあつたね)
の4人です。彼らなくして復古神道はないといえる人たちです。
それぞれについて、詳しく掘り下げていきましょう。
荷田春満(かだのあずままろ)
18世紀後半『古事記』や『日本書紀』などの歴史書の研究が行われるようになりそれらの古典のなかに日本古来の精神、古道を明らかにしようとする国学に発展しました。
荷田春満(かだの あずままろ)さんは古典学者である契沖(けいちゅう)から『万葉代匠記』などを学び、古典及び国史を学び古道の解明を試みた方です。『創学校啓』を書いて国学の学校建設を説き、国学の必要性を訴えました。
賀茂真淵(かものまぶち)
その荷田春満さんの門人(弟子)が賀茂真淵(かものまぶち)さんです。この方は儒教・仏教などの外来思想の影響を受けない日本古代の思想、古道を追究し、『国意考』『万葉考』を著しました。
また、国学を体系化し、学問として完成させたのもこの人です。
本居宣長(もとおりのりなが)
契沖の文献考証と師である賀茂真淵の古道説を引継ぎ、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる方です。
約35年を費やして『古事記』の研究をまとめた注釈書『古事記伝』は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ最も正統であると認められている『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであっただけの『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となりました。
平田篤胤(ひらたあつたね)
江戸時代後期の国学者で、復古神道を大成した人物です。本居宣長から跡を継ぐ形で、儒教や仏教などの海外からやってきた思想(外来思想)を習合させた神道を批判していました。
賀茂真淵・本居宣長から受け継いできた古道説を、神道の新たな形「復古神道」として大成させ、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
【まとめ】復古神道について
では、最後にまとめに入ります。
復古神道とは?
復古神道を略称したのが「古神道」。幕末から明治にかけて神道を国家宗教にしたいという動きとともに、神道の起源を明らかにしたいという流派がこの「復古神道(古神道)」となる。
神道とは?
1300年前ごろから入ってきた仏教の影響を受け儒教、キリスト教など様々な宗教と混ざり合ったものを言う。
垂加神道とは?
江戸時代の山崎闇斎が提唱した神道の解釈の一つで、朱子学、陰陽学、易学を取り入れた神道のことを言う。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治することが神道であるという「尊王思想」という考えを持っている。道徳的な考えが強い内容。
復古神道の歴史背景
明治時代、日本は国民国家として西欧諸国に対抗するべく様々な動きが見られました。宗教面では今まで仏教やキリスト教など神道以外の宗教も包含してきた神道を日本の宗教(国家宗教)として扱うべく教義も曖昧だった神道をしっかり決め用途いう働きが出始めます。
その流れの中で神道の起源を明らかにしたいという流派が現れたことで「復古神道(古神道)」と「神道」が区別されるようになった。
復古神道を唱えた「国学四大人」
- 荷田春満(かだのあずままろ)
- 加茂真淵(かものまぶち)
- 本居宣長(もとおりのりなが)
- 平田篤胤(ひらたあつたね)
今回は復古神道について詳しくご紹介してきました。
国学者たちが研究し追求したものが次の人に引き継がれ、さらに解明されていく。その「知のバトンリレー」が途切れることがなく今現在も脈々と受け継がれている「復古神道」。気になった方は下記書籍でさらに詳しく知ることができます。
オカルト的な思想でない学問的に突き詰められていった神道、その神道が持つ神秘性の美しさが分かる本となっていますよ。これを機に日本人の心に引き継がれている神道を学んで見てはいかがでしょうか。