神仏習合の意味と歴史を深堀り!神仏習合が現存する神社は?
前回の記事では神道の歴史について詳しくご紹介しましたが、『神仏習合』に関してはあまり詳しくご紹介していませんでした。
ほとんどの国は異宗教同士の争いが絶えない中なぜ日本は互いの宗教の良いところを一つにまとめる道を選んだのか、気になった方も多いのではないでしょうか。
そこで今回は神仏習合にスポットライトを当て、
- 神仏習合について
- 神仏習合が現存する神社
をご紹介したいと思います。
この記事では、神仏習合は何かを知ることができると同時に「受け入れる寛容さ」が我々日本人には備わっているのだとこの記事を読むことで知ることができるでしょう。
ネット環境が良くなり海外旅行へ行く機会も増えてきた現在では様々な考え方が入ってくるようになってきました。何が良くて何が悪いのかと断捨離をするのではなく、この部分は良いから受け入れようという忘れかけていた「受け入れる寛容さ」を今一度見直してみてはいかがでしょうか。
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神仏習合について
神仏習合について、次の項目に分けてご紹介したいと思います。
- 神仏習合とは?
- 神仏習合の意味
- 神仏習合の歴史
- 「神」と「仏」を同一視し合う時代
- 「神道」が「仏教」と習合できた理由
- 死を扱わない「神道」と死を扱う「仏教」
では見ていきましょう。
神仏習合とは?
古来より日本にある「神道」という考え方と、インドで生まれた「仏教」が融合したものを「神仏習合」といいます。
なぜ神仏習合をする必要があったのかを知るためには、まず「神道」と「仏教」の信仰対象の違いを明確にする必要があります。
- 神道
神道では木や火、水など自然界の全てのものからコップや鉛筆などの人工物まで、地球に存在するもの全てに神が宿る「八百万の神様」を信仰。
- 仏教
それに対し仏教ではお釈迦様や如来、菩薩などのいわゆるお寺にある仏像が信仰対象。
このように神道と仏教は信仰対象が異なっています。このままでは何を信仰すれば良いのかが曖昧になり、人々が混乱や対立をはじめます。それを防ぐために「神仏習合」をしたのです。神仏習合が生まれた奈良時代に広まった「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」がまさにそうです。
「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」とは八百万の神々は、実は衆生を救済するために仏や菩薩の化身・権現(ごんげん)として現れたとする考え方で、八百万の神々は仏や菩薩である、と神道の信仰対象と仏教の信仰対象を一つに括ったものです。
神仏習合の意味
先ほど出てきた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」のように、神道と外国からやってきた仏教の信仰を一つにした宗教の考え方が「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」です。
神仏習合の歴史
神仏習合の歴史は大きく3つに分けることができます。
- 神道の始まり
- 仏教が渡来した時期
- 神仏習合が生まれた時代
詳しく見ていきましょう。
① 神道の歴史
神道の歴史は非常に古く、縄文時代を始まりに弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと言われています。その当時は「神道」という言葉はありませんでしたが、欽明天皇の時代に伝来した仏教と区別ができるように「神道」と表現するようになりました。
② 仏教が渡来した時期
仏教が渡来したのは6世紀前半だと言われています。その仏教を積極的に取り入れたのが、この当時政権を支配していた聖徳太子です。聖徳太子が定めた「十七条の憲法」の第二条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。…」と記したことで仏教は国教として正式に認められました。
③ 神仏習合が生まれた時代
神仏習合が作られたのはおよそ奈良時代です。平安時代には神前で読経・写経などが行われ、神社の境内に神社に付属する形で神宮寺が建てられるようになります。この神仏習合は明治政府が「神仏分離令」を発布するまで約1,000年続きました。
「神」と「仏」を同一視し合う時代
神道の信仰対象と仏教の信仰対象を一つに括った「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が作られ、お寺や神社がたくさん建てられるようになり「神」と「仏」を同一視し合う時代が続きました。しかし、次第に「神道」と「仏教」の関係に変化が見え始めます。
それが
- 別当寺(べっとうじ)
- 宮寺(みやでら)
- 神宮寺(じんぐうじ)
と呼ばれるものです。「別当」とは兼務するという意味、つまりは「その寺院(別当寺)がこの神社を管理しています」とお寺側(仏教)の方が立場的に上位にあることを表すようになります。
江戸時代になると寺請制度(檀家制度)を施行され「民は必ずどこかの檀家に属さなければならない」という決まりを設けたのです。そして自分の所属する寺院に「お布施」を収め、葬祭供養を行ってもらうという決まりも設けられました。
その名残が今も残されています。例えば、
- 神棚の神様に柏手を打って商売繁盛を願い
- 仏壇に手を合わせて家内安全を願い
- 正月には神社に
- お盆にはお寺に行く
- お宮参りや七五三では神社を訪ね
- 葬儀はお寺に出向く
という「神社」で行うことと「お寺」で行うことが日常の中に混ざっているのも、この神仏習合によって生まれました。
「神道」が「仏教」と習合できた理由
なぜ「神道」が「仏教」と習合できたかというと、次の3つが考えられます。
- 神道は多神教に類する宗教のため、他の宗教を受け入れる柔軟性があった
- 仏教の考え方が日本人の考え方・性格・生活に合っていた
- 仏教にある「五明」と呼ばれる5つの専門領域の一つである「医方明」は、当時は最先端医療であったため非常に魅力的であった
結果それぞれの考えの良いところを融合させた神仏習合ができ「仏様が本来の姿で、日本の神様は化身である」という考えが生まれたのです。
死を扱わない「神道」と死を扱う「仏教」
「神道」と「仏教」の最大の違いは死に対する考え方です。神道と仏教に分けてそれぞれ違いを見ていきましょう。
- 神道では、神社にお墓は建てられない
神道の教えでは死は穢れとされているため、神社にお墓を建てることはありません。公営霊園や、民営霊園に建てる場合がほとんどです。神式では「◯◯家奥津城(奥都城)」または「◯◯家先祖代々霊位」と刻まれることが一般的です。また亡くなった後、故人は「家庭を守り続ける守り神になる」とされています。
- 仏教では、お寺に墓地を建てる
それに対し、仏教では故人は死後生まれ変わると考えられているため死は穢れではないという考えを持っています。仏教であるお寺では葬儀を行ったり墓地が隣接しているのもその表れです。
また、「◯◯家之墓」「先祖代々之墓」や、これに加えて梵字が彫られているもの、「南無阿弥陀仏」「南妙法蓮華経」など宗派のお題目・名号が多く見られます。
以上、ここまでは神仏習合についてを詳しく掘り下げてきました。続いて、神仏習合が現存する神社を詳しくご紹介していきます。
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神仏習合が現存する神社
今回ご紹介するのが、下記になります。
- <奈良> 宝山寺
- <栃木> 日光東照宮
- <東京> 浅草寺と浅草神社
- <奈良> 談山神社
- <京都> 熊野神社
- <京都> 八坂神社
- <兵庫> 祇園神社
それでは見ていきましょう。
<奈良> 宝山寺
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お寺なのにかかわらず鳥居のある珍しいお寺として知られています。鳥居をくぐると仏である不動明王と仏教の守護神である聖天(大歓喜天)が一緒にお祀りされています。神様と仏様を両方お祀りする神仏習合の寺院として、現在も参拝客が途切れることはありません。
境内を丁寧に見て回れば色々な神様や仏様を見つけることもできます。気になった方はぜひ足を運んでみてください。
<栃木> 日光東照宮
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神仏習合についてあまり知らないという方も聞いたことがあるところではないでしょうか。明治維新時に大々的に破壊されてしまった神仏習合の姿今も残されているのがこの「日光東照宮」です。
代表的な建築物が「五重塔」です。五重塔は仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るための塔ですから通常お寺に建てられるものです。ですが、神社である日光東照宮に建てられているのは神仏習合の表れです。
明治維新に「神仏分離令」が発布され様々な仏像を壊した中、今もなお残されているのは大変貴重です。
<東京> 浅草寺と浅草神社
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多くの観光客で賑わう浅草にも神仏習合の名残が残されています。それが浅草寺と浅草神社です。
今現在はお寺の本堂の横に鳥居と神社がありますが、神仏分離令が出る前まではお寺も神社もひとつの境内の中にあり、お坊さんが神事を行なったり宮司さんがお経をあげたりしながら、持ちつ持たれつ協力しながら行っていたようです。
<奈良> 談山神社
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奈良県桜井市は多武峰に位置するこの神社は、実は神仏分離以前は寺院でした。しかし、神仏分離により僧侶が還俗(僧侶であることを捨て、在俗者・俗人すなわち世間一般の人になる)したため談山神社と改称された神社です。
この神社の見所は重要文化財にも指定されている木造十三重塔です。また廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動を乗り越え神仏談山神社に残る唯一の仏像として如意輪観音像を所蔵しています(6月1日~7月31日のみ公開)。
※見たい方は談山神社にお問い合わせすることをお勧めします。
<京都> 熊野神社
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熊野神社は日本全国に2,700あると言われています。この神社は京都の中でも一番古い神社です。見た目は神社でお寺の雰囲気はありませんが、実は「熊野」という名が神仏習合に関係があります。
熊野は古代より神秘的な聖地とされており、奈良時代からこの地で修行をする者が多かったと言われています。さらに爆発的人気になるきっかけが、寛治4 (1090) 年,白河上皇の熊野御幸です。御幸とは上皇・法皇・女院が外出することをいいます。その熊野御幸は9回も行われたことから参詣人が全国各地から集るようになったのです。
なぜ熊野を訪れたのかは明確になっていませんが、おそらく山伏(修験道の行者・山野に寝起きして修行する僧)の聖地だからだと言われています。
<京都> 八坂神社
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神仏分離令が発布される前までは、八坂神社は「祇園社」「祇園天神」「祇園感神院」「祇園牛頭(ごず)天王」と呼ばれていました。
「祇園」とは仏教の開祖である釈迦(しゃか)が説法を行ったとされるインド北部の仏跡「祇園精舎」に由来されている仏語です。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことからそのように呼ばれていた神社です。明治の神仏分離以降はスサノオを祭神とする神道の信仰となっていますが、夏の大祭「祇園祭」とお寺だった頃の名前の名残が今も残されています。
2020年6月に東寺真言宗寺院・神泉苑で神式・仏式合同で行われた「祇園御霊会」では、八坂神社の神職から玉串を受け取るという神仏分離以降では初めての行いにも参加されました。
<兵庫> 祇園神社
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神仏習合の時代、素盞嗚尊の本地仏とされる薬師如来をまつる薬師堂が境内にあったことが古絵図に描かれていた神社です。
明治の神仏分離令以前は素戔嗚尊は牛頭天王と同一視されていました。現在も周囲には牛頭天王に起源を持つと思われる天王川、天王橋、天王谷、天王温泉などの地名が残されています。
【まとめ】神仏習合について
最後にまとめましょう。
神仏習合とは?
八百万の神々を信仰する神道と、お釈迦様・仏様などを信仰する仏教、それぞれ異なる信仰のそれぞれ良いところを残すために組み合わせたのが「神仏習合」
①神道の歴史
- 縄文時代を始まりに弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成された
- その当時は「神道」という言葉はなかったが、欽明天皇の時代に伝来した仏法と区別ができるように「神道」と表現するようになった
②仏教が渡来した時期
- 仏教が渡来したのは6世紀前半
- その仏教を積極的に取り入れたのが聖徳太子
- 聖徳太子が定めた「十七条の憲法」の第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。…」と記したことで仏教は国教として正式に認められた
③神仏習合が生まれた時代
- 神仏習合が作られたのはおよそ奈良時代
「神」と「仏」を同一視し合う時代
- 神道の信仰対象と仏教の信仰対象を一つに括った「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が作られ、お寺や神社がたくさん建てられるようになった
- 「その寺院(別当寺)がこの神社を管理しています」とお寺側(仏教)の方が立場的に上位にあることを表すようになったことで、徐々に仏教の地位が上がって行った
- 江戸時代になると寺請制度(檀家制度)を施行され「民は必ずどこかの檀家に属さなければならない」という決まりを設けられた
正月には神社に、お盆にはお寺に行く。お宮参りや七五三では神社を訪ね、葬儀はお寺に出向く、という行いはこの神仏習合の名残。
「神道」が「仏教」と習合できた理由
- 神道は多神教に類する宗教のため他の宗教を受け入れる柔軟性があった
- 仏教の考え方が日本人の考え方・性格・生活に合っていた
- 仏教にある「五明」と呼ばれる5つの専門領域の一つである「医方明」は当時は最先端医療であったため非常に魅力的であった
神仏習合にゆかりのある神社は意外にも日本全国各地にあるんですね。もしかしたら貴方の周りにある神社は神仏習合にゆかりのあるところかもしれませんよ。これを機に探してみるのも面白いのではないでしょうか。
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