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国家神道とは?成立の背景から見える天皇と戦争の関係性

国家神道とは 天皇 戦争 問題点

無宗教である日本でも宗教の自由について憲法に規定されていることはご存知でしょうか。日本国憲法20条では下記のように記されています。

「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。(引用:Wikipedia)」

信教の自由の完全な保障を図るために規定されたこの憲法、なぜ作られたのか。その理由は「宗教を政治上の権力として行使していた時代があったから」です。それが今回の記事テーマである『国家神道』になります。

国家神道についてより分かりやすくするため、大きく分けて下記2つに分けて掘り下げていこうと思います。

  • 国家神道について
  • 国家神道の成立とその背景

この記事を読めば国家神道とは何なのか知ることができますよ。

 

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国家神道について

  • 国家神道とは?
  • 国家神道と政教分離

上記二つに分けて国家神道について詳しく見て行きましょう。

国家神道とは?

国家神道が生まれたのは明治時代になります。

明治のイメージといえば学校の教科書を読むと「長年政権を握ってきた徳川家が天皇に政権を返上し(大政奉還)、開国をしたことによって外国から様々な文化や産業、考え方が日本に入ってきた時代」。ざっくりというとこのようなことが書いてあります。

政権が天皇に返上されたことにより重要とされたのが「国民からの信頼、尊崇を高める」(尊皇思想)ことでした。そこで「神である天照大御神の子孫は初代天皇である」と記されている天皇家の歴史をまとめた古事記や、1890年(明治23年)に出された天皇が国民に語りかける「教育勅語」では、国民に天皇制国家への忠誠を命じるとともに祖先崇拝を強調し、また各学校へ天皇・皇后の「御真影(ごしんえい)」を配布するなどして徐々に高めていったのです。

この尊皇思想をより高めるため、古事記を聖典とする「神道」が、国が認める宗教すなわち『国家神道』だとしたのです。

Wikipediaでは、国家神道は次のように定義されています。

国家神道(こっかしんとう)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道(じんじゃしんとう)」(神社を中心とする神道)を指す語である。1945年(昭和20年)のGHQによる神道指令において「国家神道」の廃止が命じられており、「国家神道」という言葉はこの時に初めて使用されて広まったものである。(引用:Wikipedia

国家神道と政教分離

国家神道の廃止が命じられたのが第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)でした。昭和期に入り戦争が激しくなってきた中、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになったのです。

愛国心を使って戦争に勝つという目的を植え付ければ、人を動員することも簡単にできるようになります。言い換えれば「多くの人を簡単に動員できるほど宗教の力は恐ろしい」のです。

もう二度とこのような悲劇は繰り返すことはないよう、国を動かすために宗教を悪用しないように「政教分離」として日本国憲法にも定めたのです。

 

さて、ここまでは国家神道とは何なのか、国家神道がなぜ今も続いていないのかを見ていきました。

次では国家神道に大きく影響を与えたものを4つに分けてご紹介したいと思います。

国家神道の成立とその背景

  • 江戸時代の国学四大人
  • 江戸時代の尊皇
  • 明治政府と神道
  • 明治時代の神道事務局の大論争とその後

上記4つに分けてご紹介します。では詳しく見て行きましょう。

江戸時代の国学四大人

国学四大人とは、下記4人のことを指します。

  • 荷田春満(かだのあずままろ)
  • 加茂真淵(かものまぶち)
  • 本居宣長(もとおりのりなが)
  • 平田篤胤(ひらたあつたね)

江戸後期に仏教や儒教と混ざり合った神道ではなく、何も影響されていない日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想(復古神道)を唱えた国学者が上記4人です。

特に平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古事記や日本書紀を読み解き皇道の正当性を国中に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たすなどの影響を与えました。

この復古神道の考えは農民や町人などの一般庶民から幕末の志士たちにも大きな影響を与え、その後の明治維新の尊王攘夷運動の観念形態に取り入れられたのです。

江戸時代の尊皇

19世紀初め(江戸時代末期)から「天皇は神である天照大御神の子孫であるから政治的権威のみなもととして尊崇すべきである(尊王論)」という思想が高まりました。

明治に入ると、その尊王論と攘夷論(外国との交流に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする考え)が合わさり、幕府政治を批判する尊王攘夷運動にも繋がりました。

明治政府と神道

明治時代になると、政府は神道を国家の宗教であるという考えを強めるため「神仏判然令(神仏分離令)」を実行しました。神仏分離とは、今まで神道と仏教を同一として見なされていた考え(神仏習合)を禁止することをいいます。

具体的には次のような政策が実行されました。

  • 社と寺院を分離してそれぞれ独立させた
  • 神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じた
  • 神道の神に仏具を供えることや「御神体」を仏像とすることも禁じた

この政策から仏教を排撃し,神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動が起こったのです。

明治時代の神道事務局の大論争とその後

廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動が起こることによって今まで権力を持っていた仏教の社寺が廃立、神官・僧侶の任命を扱っていた教部省が廃止され、代わりに神道事務局が東京の日比谷に設けられました。

その祭神に造化三神と天照大御神だけでなく、大国主大神もお祀りするべきであると出雲大社宮司の千家尊福が主張しましたが、当時伊勢神宮の宮司であった田中頼庸が拒否したことから、いわゆる祭神論争が勃発しました。伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出ましたが、事態はなかなか収束しなかったため明治天皇は「神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定」し収束しました。

【まとめ】国家神道について

では、最後にまとめに入ります。

国家神道とは?

大政奉還により権力が天皇に返上されたため「国民からの信頼、尊崇を高める」(尊皇思想)をする必要があった。

神である天照大御神の子孫は初代天皇である」と記されている天皇家の歴史をまとめた古事記や1890年(明治23年)に出された天皇が国民に語りかける「教育勅語」などを用いて徐々に高めていくとともに、天皇は神聖なものであるとするために神道を『国家神道』として扱った。

国家神道と政教分離

戦争が激しくなると国家神道を政治的に利用し始める動きが見られるようになった。

愛国心教育をし多くの人を動かせる宗教の恐ろしさ、それによって起こった悲劇をもう二度と繰り返さないために第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)に国家神道の廃止が命じられた。

江戸時代の尊皇

19世紀初め(江戸時代末期)から「天皇は神である天照大御神の子孫であるから政治的権威のみなもととして尊崇すべきである(尊王論)という思想が高まった。

明治に入ると、その尊王論と攘夷論(外国との交流に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする考え)が合わさり幕府政治を批判する尊王攘夷運動にも繋がった。

明治政府と神道

明治時代になると政府は神道を国家の宗教であるという考えを強めるため「神仏判然令(神仏分離令)」を実行。

(神仏分離とは今まで神道と仏教を同一として見なされていた考え(神仏習合)を禁止することをいう。)

 

『国家神道』は廃止され日本国憲法20条にも規定されるようになったのは政治による影響が強かったからというのは驚きですよね。

しかし、決して「神道」自体が悪いわけではありません。

なぜなら神道の考えは今もなお私たちの日常に溶け込んで受け継がれているからです。神道のことをより詳しく知りたい方は下記記事を見てみてはいかがでしょうか。

神道の歴史を深堀り!起源から現代神道に至るまでを簡単解説

 

元巫女による創作舞はこちら